Joy Luck Club

日記帖・雑記帖・ぼやきノート・備忘録・・・




「不時着する流星たち」 :: 2017/04/11(Tue)



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小川洋子は何冊か読んだことがあって、「博士の愛した数式」と「猫を抱いて象と泳ぐ」が好きで印象に残っている。
この短編集は面白い試みで不思議な読み心地だ。短編集だと云うことも、どんな方式で書かれているかも知らぬまま、「不時着する流星たち」という題に惹かれただけで図書館に予約した。

第一話「誘拐の女王」は十何歳も歳の離れた母の再婚相手の娘が突然一緒に暮らすようになったことから始まる。裁縫箱を片時も離さない姉に、耳元で「ゆう・かい」と囁かれたときから妹の私は姉の語る不思議な話の虜になる。
何だかよくわからないけれど、とりあえず30ページ近くの物語を読み終えた。物語が終わった次のページに出て来たヘンリー・ダーガーと言う人のプロフィール。
 
 ヘンリー・ダーガー (1892~1973)
 アメリカ、イリノイ州シカゴ生まれ。子どもをさらう悪と戦う少女戦士たちの長大な絵物語『非現実の王国で』を人知れず創作し、誰にも認められないまま、一掃除夫として死去。病気のため救貧院に移る際、ゴミに埋もれた部屋の中から、アパートの大家によってその物語は救い出される。ブレンゲンは子供たちの幸せを心から願う、王国の怪獣。喉の奥の針から甘い液体を放出し、子どもたちをよみがえらせる。
 墓碑には『子供たちの守護者』と刻まれている。


な~るほど、実在の人物をモトにして小川洋子流の話に仕立てるのか・・・。(人物以外が二編あったが)ちょっと興味がそそられる。では、第二話は誰のことを?とプロフィールを読みたくなる気持ちを押さえて、「散歩同盟会長への手紙」を読んでみる。すっと話の中に入れる、読み易くてテイク好みの物語だ。元になっているのはローベルト・ヴァルザーという名の、へぇ~そうなのね~とこれも興味が湧く人物だった。もちろん小川洋子の物語はこの人物にどこかで重るように創られている

こんな具合に十話まで。十個の流星たちはこういう風に不時着したのねぇ。

十のうち三編が良かったかな。「測量」を第一位にしよう。二位は「散歩同盟会長への手紙」。「十三人きょうだい」の流れも悪くない。テイクのいい加減な評価は、下敷きになっている人物に大きく左右されている。表紙から裏表紙へ繋がる絵や一話一話の表紙ページのMARUUという人の装画も不思議な雰囲気だ。

4月8日読了




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「メディア・コントロール~正義なき民主主義と国際社会」 :: 2017/03/26(Sun)








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メディア・コントロール
      ~正義なき民主主義と国際社会
                 (集英社新書)
           ノーム・チョムスキー 著
           鈴木主税 訳

表題の論文「メディア・コントロール」、2002年1月にニューヨークのタウンホールで開かれたメディア監視団体「報道の公正さおよび正確さ」十五周年記念講演を編集した「火星から来たジャーナリスト」、辺見庸によるチョムスキーへのインタビュー「根元的な反戦・平和を語る」(2002年3月)が収められている。

言語学者であるノーム・チョムスキーは、いつも静かに、冷徹とも思える姿勢で物事を見据えている。ベトナム戦争以来アメリカの覇権主義の対外政策を彼は批判し続けて来た。彼の姿勢は一貫していて揺るぎのないものに思える。この本に収められている三篇でも、だから、体裁は違うものの変わらぬ彼の信念が述べられている。この「メディア・コントロール」はテイクにとって三冊目のチョムスキーの本だ。米国のあちらこちらで開かれた彼の講演会や彼の研究室で行われたインタビューなどをまとめたドキュメンタリー「チョムスキー9.11」(ユンカーマン監督)のDVDも手元にあるので何度も観た。弱気になるとチョムスキーの気負いのない静かな、だけれども確固とした声と言葉を聴きたくなるから。





現代政治に於いてのメディアの役割とは何か。「民主的」という言葉がどういう意味で用いられているか。チョムスキーはまず対立する二つの「民主主義社会」の概念を提示する。
「一般の人びとが自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会」と「一般の人びとを彼ら自身の問題にかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするもの」と。

現実として、二つ目の概念の方が優勢で、昔から理論的にも通用し実行されてきたのだということを私たちはまず理解しておかなければならないと言われて戸惑う。こんな民主主義社会があるのか?と疑うけれど、私たちが民主的だと思っている現実がこの二つ目の定義に当てはまってしまうのだ。どの様にメディアと情報工作が絡んできたのか・・・。

第一次世界大戦の頃、ヨーロッパの戦争にアメリカが関わることに反対していた平和主義一色のアメリカ世論は、政府主導の宣伝委員会(=クリール委員会)の設立の半年後には、戦争賛成論に変わってしまったのは何故か。イギリスの宣伝機関がねつ造したドイツ兵の残虐行為をアメリカ社会の知識階層に流布し彼らの考えを操作した。これが「世論の動向を操作する」のに効果を納めたことに注目しなけらばならない、と言う。

まず知識人の考えを操作し、その間違った認識を戸惑える人々に広める、というのがどうやら情報操作の定型らしい。私たちの生きている「民主主義社会」では、「一般の人びとを彼ら自身の問題にかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとする」のだから。「大衆はテレビの前にぽつねんと座って、頭にメッセージをたたき込まれていればよい。」それが財界が強烈に支配しているアメリカの「民主主義社会」の姿なのだ。労働者の権利が奪われ、労働組合は潰され、労働者階級の文化も衰退する。国が海外に進出するために、平和主義に陥りやすい国民を煽り、怯えさせればよい。敵を出現させるのだ。かつてはロシアだった敵は、国際テロリストや麻薬組織、アラブの狂信者、サダム・フセインとなった。こうやってアメリカは「正義」を掲げ、テロ行為を続けてきた。これらをテロだと国民が考えないのは、事実を知らないからだ。メディアが伝えないからだ。

911以降のアメリカでは言論の統制が厳しくなってきているのではないかとの辺見庸の問いに、そんなことはない、今のアメリカは60年代に比べれば比べものにならないほどに自由だ。ヴェトナム戦争が始まった頃に反戦の講演会なんて簡単に開けなかったし、開いたとしても数人しか集まらなかった。反戦を訴えて女性たちが住宅地をただ歩くだけの反戦デモをすればトマトや缶を投げつけられた。今では保守的な南部の州でも、私の講演会にたくさんの人が集まる。自由に発言はできるし、政府を批判することもできる。但し、そういった意見をマスコミが取り上げるか、アメリカ政府のやっている悪事をマスコミが報道するかと言ったらそれはない。マスコミは政府に都合の悪い意見をことごとく無視するのだ、とチョムスキーは答える。


「私たちは、自由な社会に住みたいのだろうか、それとも自ら好んで背負ったも同然の全体主義社会に住みたいのだろうか。どちらを選ぶかは、私たちしだいだ。この選択に一人一人が向き合わなければならない。答えは、私やあなたのような一般の人びとの手中にあるのだ。」
アメリカの後を追うかのように、いやアメリカの手先になりたいかのように崩れていく日本にいる私たちも、権力にコントロールされている情報に騙されず、どういう社会に住みたいのかを深く考えろと言われているようだ。


3月18日読了





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「麦屋町昼下がり」 :: 2017/03/07(Tue)

初めての藤沢周平だ。
時代小説も若いときは結構読んでいたけれど、藤沢周平を読まなかったのはどうしてだろう。
昔テレビを観ている頃には、番組を観ているはずだが。
初めての藤沢周平は、甲状腺嚢胞の診察で大学病院に行ったとき、
待ち時間が長すぎて持参した本を読み終えてしまったので、
病院の売店にあった数少ない本の中から半ば仕方なく選んだという事情がある。


表題の「麦屋町昼下がり」の他三篇が収まっている短編集で、全て昭和六十二~四年の作品。
些細なことでつまづき禄高を減らしてしまった侍とその家族が主人公で、
「麦屋町昼下がり」は江戸詰の侍の女房が夫の留守中に密通をして義父に咎められ斬りつけられるところを、
事情を知らずにその女房を助けようと義父を斬り殺してしまった通りすがりの若い侍の話だが、
他三篇は藩主が江戸に出ている留守を預かる上層部の不正に巻き込まれたり、
とばっちりを受けたりするのが共通点。
江戸時代にも21世紀の世にも金に目の眩む似通った輩が存在するのだな~。
人間、何にも進歩していないと云うこと。
(進歩どころか更に更にひどい不正が行われている昨今ではないか。)
藤沢周平は最後には悪い輩をぎゃふんと言わせてくれるのですっきりするし、
何気なく描写される情景の中に読者が身を置いてしまいそうだ。

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「こおろぎ小路の白炭屋の店の中は、武家と町人、百姓の席をわけている。
(・・・・・今宵の白炭屋は混んでいた。)
 それでも重兵衛は他の店に行く気はしなかった。こおろぎ小路に飲み屋、小料理屋は数あるが、酒は白炭屋にかぎると日ごろから重兵衛は思っていた。店は汚れていて灯はうす暗く、肴もさほどのことはないがなにしろ酒がうまい。店の一角に腰をおちつけて、夏は冷、冬は熱く燗のついたのをぐっと一杯やると、世の憂さを忘れる。
 それで今夜も、何はともあれ坐る場所があってよかったと思いながら、重兵衛ははこばれて来た酒をちびりちびりとあけていた。時どき里芋とこんにゃくの煮つけ、ほっけの塩引きを焼いたのに箸をのばす。」 「三の丸広場下城どき」


う~~ん、美味しそう~。
仕事を終えて家に帰っても、男やもめの重兵衛を憐れんで本家が送り込んだ口うるさい手伝いが居るだけ。
それを逃れて今宵もこおろぎ小路の白炭屋で飲んでいる。
狭い飲み屋の薄汚い土間で、一日を終えた町人、百姓、武家が席が分れているとは言え、
ごっちゃになって肴をつまみ酒を飲んでいる情景や音や話し声を空想して、
読んでいたテイクは、昼間っから一杯呑みたくなってしまったではないか。


先日読んだ「須賀敦子の手紙」で、須賀ががん治療のために入院していた時、
藤沢周平のことをすまさんとジョエル宛てに書いている。
(須賀が入院している時、一階下の病室に入院していた藤沢は亡くなった。)

「それから 私にとってcomfort booksはどれかなあと考えていて・・・・・最近知るようになった藤沢周平の時代小説もそのなかに入れたいと思いました。最近亡くなった藤沢周平さんは、山形県のたしか鶴岡という小さな城下町に生まれた人で、その町に「海阪藩」という架空の城下町を重ねて、その中で生きる人たちを、しずかな筆致で描いた。私が最初に読んだのは 三屋清左ヱ門山日録(ミツヤセイザエモンザンジツロク)という本で、retireした武士の話です。」

と書き、「司馬遼太郎の対極にあるような作家で、宥される、といった感じが私をほっとさせてくれます。ちょうどJ.C.(ジョエル・コア)のpasta+バター+ケチャップみたいかも知れない。」と続けているのを思い出した。
よし、「三屋清左ヱ門山日録」を二冊目の藤沢周作にしよう。
自分の故郷に架空の町を重ねて小説を書いたということを知って読むと、また一味違ってくるかもしれない。
娯楽読み物ながら柔らかな空気を醸し出し、殺陣の場面や嫉妬心でさえもしみじみと描く作家だなぁ。

最後の物語「榎屋敷の春月」の主人公・田鶴が陰気で決断力のない夫を尻目に、
夫の出世に響くかもしれないけれど、黙っていられない!と、
江戸からの隠密の遣いを助け、対応をてきぱきと進めていく姿がかっこいい。
これも勧善懲悪の話だから、
幼馴みが夫の上司に賄賂を贈って出世させようと躍起になっていたことが、
裏目に出るという結末でスカッとする。


3月2日読了





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「須賀敦子の手紙」 :: 2017/02/28(Tue)

須賀敦子の手紙 
1975-1997年 友人への55通
(つるとはな)



好きな、大好きなエッセイスト須賀敦子が亡くなって19年になる。テイクが彼女のエッセイを初めて読んだのは2013年のことで、亡くなってから15年ほど経っていた。

この本には、その須賀敦子がすま & ジョエル・コーンさんに宛てた手紙が納められている。須賀が夫・ペッピーノを亡くしてイタリアから日本に戻ってきたのと同じ頃に、ジョエル・コーンさんはアメリカから日本文学の勉強をしに日本に来た。須賀が慶応大学で留学生の世話をしたり相談に乗ったりする部署にいた時にジョエルさんと須賀敦子は出会った。おすまさんことすま・コーンさんと須賀敦子との出会いは73年12月に須賀が開いたパーティーに後の夫となるジョエル・コーン氏と共に参加した時だ。その後、須賀は一回りほど年下のすまさんを親友と呼ぶようになり、亡くなるまで心の支えとしていた。


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すま&ジョエル・コーンさんが公開を承諾した手紙55通が写真で紹介されている。書簡の写真がとてもきれいに撮影されているので須賀敦子の文字が読む者の目にそのまま生き生きと映る。手紙の内容は近況報告などが主体で、愉快で楽しい表現もあちこちに見られ、一味違った須賀敦子に触れることができ須賀ファンとしては嬉しい。

例えば、1977年8月12日の手紙では、メダカを飼っていることを書いて、
〔たまごは、うんでしばらくしてから別の容器に入れてやらないと親たちが、もう忘れてしまって、すてきなごちそう、キャビアかナ、いくらかななんて言って食べてしまうのです。よく考えれば変な人たちです。〕と愉快な注釈を入れたり、イタリアの評論家が書いたものを翻訳していることに触れて、「・・・・バカげてむづかしく、何を訳しているのか自分にもよくわからなくて、こんなものをする気はないけれどたのまれたので仕方なくやってしまった。ずいぶんあたりまえのことを言うのに難しい言い方をする人がいるのだなァ、これは、やっぱりデカダンスではないかと言う気がしました。古典の簡潔さを求めること、簡潔な文章を書くことの勇気を持ち続けたいと思いました。」と翻訳することの苦労なども書いている。

慶応や上智大学で教えていた須賀は、面倒くさい人間関係ややる気のない学生たちの愚痴を時々すまさんにこぼした。
インテリ女にはなりたくないというようなこともこんな風に書く。「・・・・・ひょっとしたら自分は勉強をするのが好きなのではないかと突然一種の恐怖におそわれたりします。昨日一寸用があって日本橋三越へ行きましたが、地下鉄をおりたところの鏡にうつった私の顔はインテリ女みたいだったので心からぞっとして助けてくれというかんじでした。勉強してもインテリ女にならないように、ちょうど雪解けの道を水たまりをとびこえながら走って行くように、インテリという水たまりに落ちないように―――生きたいのですが。」



ジョエル・コーン氏に宛てた最後の手紙では、ガンバレとかガンバ!という言葉が嫌いだと書いている。では代わりにどう言えばいいか・・・「しっかり!」「まあ、しっかりするのね」「大丈夫よ、きっと」とかはどうだろう。「しっかり」「しっかりね」がいい、でも古い語感だ・・・混乱してきた・・・と。放射線治療中で体調はあまりよくなかった。
「もっといろいろ書きたいけど少し疲れたので今日はこれで止めます。元気でいてい下さい。たぶんこの『元気』という言葉も『つつがなく』なんて書いていた時代の人たちは身ぶるいしたに違いない。元気ということばも全体として、あまりすばらしい語でもないようにも思いますね。きりがないから、さようなら。」

この手紙の2か月後に退院し、3か月後に再入院。その半年後に69年間の人生の幕を閉じた。


青インクで書かれた丸っこい字。
親友だけに吐き出せる悩みや愚痴や独りで生きる辛さ(と言っても、彼女はそんなに弱くはない)。
そしてユーモア。
どの手紙を読んでも須賀の日常や精神状態が垣間見え、須賀敦子の人生に僅かながら入り込むことの出来る貴重な書簡集だ。何度でも読み返したくなる。

2月23日読了     








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「ある小さなスズメの記録」 :: 2017/02/22(Wed)

小学校4年生だったか5年生だったか、ベランダに弱ったスズメの雛を見つけた。
換気用の桟に作られた巣から落っこちたようだ。(或いは落されたか。)
ダンボールに入れて脱脂綿に水を浸して嘴を開いて水を垂らした。
意識はあったようだからちゃんと反応したのだけれど、さてさて何を食べるんだろうスズメって。
母と姉妹弟が大慌てで考えて、一番に思いついたのがお米。
米粒は固くて食べないので、ご飯粒を潰して少しだけ口に入れたら、結構旺盛に食べたのだ。
それからはどんどん元気になって、チュンコという名前を呼ぶとダンボール箱の底から見上げるようになった。

箱から出してやると部屋の中を飛び、人間に近づくようになった。
そろそろ外の世界に返してやる頃だと母に言われて庭に連れ出して地面に置いてみたけれど、
飛び立つどころか人間にくっついて自分も一緒に家の中に入って来てしまう。
こちらも懐いたスズメ、チュンコが可愛くて手放せなくなってしまっていた。

そんな風にして共同生活が始まり、
夜だけ段ボールの箱に入れて、あとは部屋の中に放した。
子どもが学校に行っている間は母と遊んでいたのだろう。

宿題をやっていると部屋の隅からノートの端に飛んで来て、
鉛筆につかまろうとしたり、肩にとまったりした。
ほんとうによく懐いて可愛かった。


一年以上一緒に居たけれど、ある日学校から帰ったらダンボール箱の底で冷たくなっていた。
母が部屋の掃除をしようと段ボール箱ごと庭に出していたら、猫が来てやられてしまったらしい。
あの時は姉妹弟三人が泣いた泣いた。




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19世紀末、イギリスに生まれたピアニストのクレア・キップスが保護したスズメの雛を慈しみ育て、家族として友として一緒に暮らした12年7カ月余りの記録だ。小さなスズメはクラレンスと名付けられたけれど「坊や」と呼ぶときにだけ返事をした。時は第二次世界大戦中、空襲が激しくなった頃で、クレア・キップスも市民防衛隊員として活動していた。小さなスズメはキップスに連れられて、戦時下で暗くなりがちな子供たちや大人たちを訪ね、芸を披露して人々を慰め、町の人気者になった。ピアノの練習をしていると、スズメはクレアの手に乗ったり鍵盤の上をを歩いたりして、やがてはピアノの音に合わせて歌うようにもなった。

クラレンスは日本に生息するスズメとは異なるイエスズメで寿命は3年ほどだという。12年以上も生活を共にした友を失ったクレア・キップスの哀しみや寂しさはどんなにか深かっただろう。彼女の友人である詩人のウォルター・デ・ラ・メラもスズメとの生活ぶりを詳しく記しておくようにと勧めてくれた人たちの一人で、この本が出版されたとき、『人は・・・このような言葉を持たぬちっぽけな羽毛の塊が』心の底からの愛を持てるのだろうかと自問自答してしまうだろう。クラレンスは神の言葉を伝える大天使ガブリエルでもあると、批評文を書いた。クレア・キップスと小さなスズメとの日々が飾り気のない文章で記録されている。

原題の「Sold for a Farthing 」は、本書で引用されているマタイ伝十章二十九節『スズメは二羽まとめて一銭で売っているほどのものである。しかし、そういうスズメの一羽ですら、主の許しなしでは、地に落ちることもかなわないではないか。』からきているという。
「この箇所は、聖書のページの中で、それぞれ個性をもった被造物が、創造主にとってどんな価値を持っているかを、驚くほど具体的に明らかにしている啓示の部分である。」(124ページ)
「日々の読書」と題する写真には小さな本のそのページを静かに見つめている年老いたクラレンスが写っていて、キップスは「これはいわば彼の短い説教であり、懐疑と不安に満ちた人類への別れのメッセージとも思われる。」と書く。

ルカ伝十二章六節(五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。)が出典だと梨木果歩さんが語ったインタビュー記事があるらしいが見つからなかった。

どちらにしてもSold for a Farthingとは、スズメのように小さな命にも貴重な価値がある、と云うことなのだろう。この本の内容を充分に表している。
2月21日読了





Sold for a Farthing 
ある小さなスズメの記録 
人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯

クレア・キップス
梨木果歩[訳]

文藝春秋







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「ジャッカ・ドフニ」 :: 2017/02/19(Sun)






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ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語
津島佑子 著  (集英社)


アイヌの母と和人の男との間に生まれたチカップ(アイヌの言葉で鳥)。ハポ(アイヌの言葉で母)のことは覚えていないけれど、時々小さな透きとおる声でルルル ロロロ・・・と出てくる「歌」がハポが歌っていた子守唄なのか。ハポが亡くなったあと、チカ(チカップの愛称)は函館の旅館で育てられ、3歳の頃、子どもたちに軽業をさせながら北海道に巡業に来ていた親方に身売りされる。

金鉱労働者に混じり布教活動をしていたポルトガル人パードレ(宣教師)に津軽海峡を渡る船の中で出会ったチカは、親方から逃れ津軽のかくれキリシタンの村の少年・ジュリアンと一緒に、いくつものかくれキリシタンの村で世話になりながら何年もかけて長崎に向かった。ジュリアンはポルトガル人が運営する教会のあるアマカウへ行ってパードレになる勉強をして、また日本に戻ってくるという大きな目的を持っていた。江戸時代、キリスト教は禁止されていて信仰が見つかれば棄教を押し付けられ、拒否すれば殺される。そんな時代に、江戸幕府の迫害から逃れ憚ることなくキリスト教信者として生きる為に、そしてジュリアンのようにパードレになる為に、危険を冒してアマカウに渡ろうとする人々がいたのだ。

ジュリアンはチカを妹のようにかばい、チカはジュリアンを兄のように慕い、他のキリシタンたちと支え合いながらアマカウで生きる。何年か後、アマカウから追放された日本人信者たちはバラバラになって海を渡った。
チカはジャワのバタビアに渡りそこで結婚し子供を産み、その子らに思い出したいくつかのアイヌの歌を歌い聞かせて育て、日本海を回って北海道に向かう舟に乗せ、その子らはきっとアイヌの地で駆け回っているだろうことを祈り、その姿を思いながら六十幾年かの生涯を終える。ジュリアンがアマカウの教会に留まったのか、何処かへ渡ってパードレになる勉強を続け、日本に戻れたのかは最後までわからない。



このチカとジュリアンの大きな物語を挟むように、「わたし」が福島の原発事故のあとに訪ねる2011年の網走のこと、1985年の「あなた」が息子のダアを連れていった網走のこと、道東の湖を訪ね歩いている二十歳の「わたし」のことが語られている。
ダアと訪れた「ジャッカ・ドフニ」で撮った写真は8才で亡くなってしまうダアの墓室に飾られる。ジャッカ・ドフニとは「大切なものを納める場所」という意味のサハリンの原住民・トナカイ遊牧民のウィルタの言葉。「わたし」とダアが訪ねたのはウィルタのゲンダーヌさんの所だった。

サハリンの原住民は第二次世界大戦時に日本軍として徴兵され、ロシア国境で戦った。戦争が終わると日本人ではないとして保障を受け取ることが出来ず、仕方なしに「北川源次郎」という日本名で網走に移住したゲンダーヌさん。ここにもまた虐げられる少数民族の姿がある。アイヌ民族は和人に土地を奪われその文明も否定され細々と伝統を繋いできた。キリシタンも長く迫害され、信仰を隠して生きなければならなかった。

「ジャッカ・ドフニ」   虐げられる者、抑圧される者、差別される者、異端視される者・・・あらゆる弱き者の大切な何かを納める空間、時間だけが静かに流れている。

オホーツク海、南シナ海、日本海。海の記憶の物語。
「パードレしゃま」「兄しゃま」という幼いチカの声と、ルルル ロロロ・・・・・ハポの子守唄が耳から離れない。


1月中旬読了   






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「プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」 :: 2017/02/11(Sat)



「プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」
アン・ウォームズリー 著 向井和美 訳   (紀伊国屋書店)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カナダのトロントに住むジャーナリストの著者が友人・キャロルに依頼されて一年間だけボランティアとして手助けをした刑務所での読書会の記録。刑務所という事情もあってプライバシーを保護する必要から、キャロルとアン以外は仮名を使っている。


著者のアン・ウォームズリ―には、夫の赴任先ロンドンで生活していた時、強盗に襲われるという経験がある。大きな男に首を絞められたので声がしばらくでなくなり、もちろん、PTSD(心的外傷後ストレス障害)から脱するのに長い時間がかかった。だから、キャロルから手伝ってもらえないかと依頼された時には迷った。が、「事情は事情として、どう、手伝ってもらえないかしら。」との言葉に、読書好きなジャーナリストとして刑務所での読書会に興味が湧き、引き受けた。

『読みかけの本を残して出所してはいけない。戻って続きを読みたくなるからだ。』 (刑務所の言い伝え)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

読書会は月に一度開かれる。アンがリストを作りキャロルが候補となった本を手配する。参加者全員に同じ本を渡し、次の読書会で話し合うという形だ。「体じゅうにタトゥーのある男たちが18人ほど集まって読書会を開く場所は本館ではなく」、看守もいない、防犯カメラらもない別棟だった。恐怖心の為、初回の読書会のことをアンはほとんど覚えていない。

「恐怖心は偏見から生まれる。社会に存在するひどい不公平の根源には、こうした恐怖心があるものだ。もし受刑者たちがみずからの善をたずさえて読書会に参加し、たとえひとときにせよ、その時間だけは別の人生を生きようとしているのなら、キャロルにならってわたしも彼らの努力に敬意を表すべきだろう。」

こうして始まったアンにとっての刑務所読書会は、次第に彼女の受刑者を見る目を変えていく。キャロルが参加できない時には不安を抱えながら一人で出かけることもあった。何ヶ月か後には軽警備施設のビーバークリーク刑務所での読書会にも関わることになった。コリンズ・ベイ刑務所の読書会でリーダー的な存在だったグレアムとフランクがビーバークリークに移ったのを機会に、ここでも読書会を開いてはどうかとキャロルが彼らに提案したのだ。久しぶりに会ったグレアムとフランクは、刑務所では規則違反なのだがアンに手を回してきた。「わたしににとって人生初の、受刑者とのハグだ。」

1年の間、二つの刑務所での読書会に参加したアンは、メンバーのすべてという訳ではないけれど次第に友人のような関係が築かれていくのを感じる。軽警備施設から更正施設に移り、社会に戻るために、どこかで監視している警察官の目を感じながらも、少しずつ自立した生活を営む訓練を続ける何人かの受刑者たち。その過程では職業に就くために大学で勉強する者もいる。家族とやり直すために手に職をつける者もいる。キャロルはもちろん、アンも二つの読書会で仲間だった受刑者たちのその後を案じ、時々会って本の話などをする。キャロルは云う。更生させるために読書会を開くのじゃない。本を好きになってもらいたいの。


読書会で受刑者が出し合う感想や意見、深い考察は、熟読した結果だ。アンも時々、「そうか!」と自分の読後感との違いに驚き納得したりする。その体験をまとめて出来上がった本が『プリズン・ブック・クラブ ~ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』だ。たくさんの様々なジャンルの本を読んだ。受刑者たちはありきたりの薄っぺらい内容を求めていない。「その場しのぎの、ただ面白いだけの小説にはもう興味がない。著者がなにを考えてるか、どんな語り口で表現してるかを知りたいんだ。」シドニィー・シャルダンなどのふつうじゃない人間の話じゃなくて、現実的な人生の話がいいんだ。

面白い本だった。取り上げられた本の数が多い。どれも読みたくなるような、そして、受刑者たちと一緒に読書会に参加しているような気分にさせてくれる作品だ。

訳者のあとがきの中で「プリズン・ブック・クラブ」のホームページが紹介されていた。わ~~ぉ。プリズン・ブック・クラブがより具体的にイメージできる。右上の「三」みたいなアイコンをクリックするとメニューが現れるので色々見るとさらに具体的なイメージが・・・。


2月8日読了

スキャンした時にはくっきりしてるのに、取り込むと何度やってもこのようなピンボケになってしまう。
何故?こんなこと初めてだ。

表紙の雰囲気って大事だと思うから、ボケていても載せてしまおう。


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〈主な登場人物〉 (仮名)

・ドレッド=ジャマイカ出身。薬物がらみの事件で服役中。カナダを代表する作家マーガレット・アトウッドを愛読

・ベン=カナダ生まれ。ジャマイカ育ち。故殺により4年の刑。『スモールアイランド』をおもしろく読んだという

・フランク=イタリア出身。発砲事件により10年の刑。好きな本は『またの名をグレイス』

・グレアム=『ヘルズ・エンジェルス』元メンバー。薬物売買と恐喝により17年の刑。好きな本は『サラエボのチェリスト』

・ガストン=連続銀行強盗により6年の刑。好きな本は『ガーンジー島の読書会』

・ピーター=コンビニ強盗により4年の刑。好きな本は「怒りの葡萄』と『二都物語』

・マイケル=トロントの南アジア人居住地出身。麻薬密売により服役中





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田中カツ~田中正造の妻と明治の女たち :: 2017/01/07(Sat)

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明治の女・田中カツの凛々しい顔が表紙にある。
足尾銅山鉱毒事件で政府や企業との闘いの先頭に立った田中正三の妻・カツの生涯をまとめた小説。(著・渡辺順子 随想舎 2016年9月第一刷発行)

著者は、2011年3月に初めて渡良瀬駅近くにあった旧田中正三記念館を訪れ、それ以後、田中正三の研究に打ち込んだ。住まいのある八王子から泊りがけで頻繁に記念館に通い、名誉館長の布川了氏に師事し、田中正三の生家を守る会事務局長・田村秀明氏には正造とカツのゆかりの地に何度となく案内してもらう。およそ100年前に起こった出来事を追体験するかのように、4年間に83回も足を運び、この作品を形つくっていった。明治時代に活躍した女たちを軸にした物語ではあるが、底に流れるのは足尾銅山鉱毒事件であり、被害民や田中正造を抜きにして語ることはできない。(編集部・石川栄介氏によるあとがき要旨)

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「渡良瀬川の源流は、栃木県足尾山地の最高峰・皇海山(すいかいざん)を水源とするとする松木川である。松木川は下って秋穂町の入り口で、日光方面から流れてくる神子内川(みこうちがわ)と合流する。合流付近に川の名称となる渡良瀬という地名がある。」(92頁)

足尾の山は森林に覆われ、腐葉土が厚く堆積し、雪解け水や台風などの増水でこの養分をたっぷり含んだ土が下流に流され、渡良瀬川流域の農民が「こやし水」と呼ぶほどだった。水量の多いこの川に棲む魚も豊富で、流域では漁業で生計を立てていた者も多い。

(以下 第三章の要旨)

足尾銅山は16世紀半ばには採掘が始まり、江戸時代には幕府の直轄となっていたが衰退し明治になって民間に移管された。買い受けて経営を始めたのは古河市兵衛で、明治17年に大鉱脈に当たり新しい技術を大胆に導入したことで日本を代表する輸出産業となったものの、山林を乱伐し精錬所から排出されるヒ素や亜硫酸ガスを含む煙が地域の生き物を絶滅に追い込んだ。明治18年、大量の鮎が浅瀬に浮かんだ。23年の大洪水で肥沃な農地は汚水にまみれ、農作物はほとんど収穫できなくなってしまった。毒を含んだ水が排出されたため、命の川と言われた渡良瀬川に棲んでいた生き物が死に絶えた。農業や漁業で生活していた人たちは困窮し、食べるものもなく乳飲み子を抱える母親の乳も出なくなった。被害民は水質検査や実地調査、鉱毒泥土の分析調査の結果を示し、国会議員となった田中正三は国会で被害民の救済や鉱毒防止対策を追求したが、富国強兵政策を推し進め企業と癒着している政府は銅山を守る姿勢を取り続けた。

明治30年、渡良瀬川流域の被害民は鉱業停止を求める請願運動を繰り広げ、政府に訴えるため2000人余りが上京した。「押し出し」と云う。33年の四回目の押し出しの時に 山縣有朋政権による大弾圧が起こる。地域の雲龍寺を出発した隊列の先頭が館林の南、川俣に着いたところで二百人余りの警察官が武器を持たない素手の被害民を襲い、「土百姓」とののしりサーベルで突く殴るの暴行を加え、目立つ者を縛り上げ、15名を逮捕した。検察が68名を予審請求したが3年後に書類不備による裁判不成立と判決があり、事実上の無罪を勝ち取った。田中正三や大弁護団、全国からの支援により法を武器として闘い支配勢力に打ち勝ったこの川俣事件は歴史に大きな教訓を残したと言われる。その翌年、正三が天皇に直訴した出来事は有名だ。

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この様にして足尾鉱毒事件は起こり、それによって生活を奪われた被害民を救済する為に田中正三は我が身を捨てて奔走した。田中正三とカツが結婚したのは明治元年、正三23歳、カツが15歳の時だった。それから正三が亡くなるまでの40年の間に一緒に過ごしたのは3年ほどだったという。カツの人生は、国会議員を辞め被害民の先頭に立って権力と闘っている正三の両親の世話をやき、被害民を助ける為に正三の指示で渡良瀬川流域に移り住み、東京などからの支援者たちと共に支援活動に身を投じたり、いわゆる「陰で夫を支える」明治の女の人生そのものだった。田中正三の偉大さは広く知られているが、その妻・カツのことはほとんど知られてはいない。

女の人権が認められていない時代だったが、その人権を手にするために動き始めた女たちも現れている。
被害民の女たちの「押し出し」が明治35年に始まり、東京に滞在する間に政府関係者に陳情したり、多くの集会で鉱毒事件の実情を訴える活動もした。
女性解放をスローガンとする「世界婦人」を明治40年に創刊した福田英子は、鉱毒事件・谷中村問題を「世界婦人」でもたびたび取り上げ、被害民や田中正三の力になった。が、亡夫の家に戻るように強く勧める田中正三が女性の置かれた立場や境遇にあまり理解がないことも見ぬいていた。何度か会ったことのあるカツが孤独な表情を見せることにも気がついていた。
大正2年には平塚らいてうら若い女性たちが「青鞜」を創刊し、女性の人間としての復権を主張し女に対する封建的な思想に対する文芸雑誌として多くの作家の寄稿を得た。世の男たちの反発は凄まじかったが彼女たちは悠々と前に進んだ。ちなみに大正2年の日記に正三は「新婦人の演説会があった。これは家庭破壊になる。・・・・・」と書いた。「らいてうが、もし正三の日記の内容を知ったら、『40年の結婚生活で、妻と3年しか共に暮らしていない男性に、家庭破壊とおっしゃっていただきたくございません。』と眉も動かさず、涼しげに言い放ったことだろう。」と著者は書いている。自由民権運動に身を投じた田中正三も女の権利には無関心且つ無理解だったのだ。
時代が時代だから仕方がないとも言えるが、田中正三だけにスポットが当てられる中で、充実した結婚生活も送れないまま陰で夫を支えながら生きたカツと云う女性がいたことを浮かび上がらせた小説「田中カツ 田中正三の妻と明治の女たち」が出版されたのは有意義だ。洗練された文章や構成ではないけれど、多くの人の目に触れるといいと思う。
(残念ながら著者・渡辺順子さんはご自分の手で校了を終えぬまま亡くなっている。遺族の強い希望で出版することとなった。)

秩父事件と言い、足尾銅山鉱毒事件と言い、明治憲法下での権力の横暴は許せるものではない。翻って新憲法制定から70年も経った今現在はどうだ?沖縄での辺野古新基地建設に反対する人々、高江へのオスプレイ配備に反対する人々への政府権力の対応はこの明治政府のやり方そのものじゃないか。格差は広がり、社会保障費は削られ軍事費は増え続ける。弱者は社会の片隅に追いやられ、ほんの一握りの富裕層にしか金が集まらない仕組み。権力が一部の者の手に握られ続けている状態。その権力者が経済第一と唱えるのは何のため?明治時代と同じ富国強兵政策に他ならない。



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暗幕のゲルニカ :: 2016/10/03(Mon)


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原田マハ・著 (新潮社)
ピカソの「ゲルニカ」を軸に展開するフィクション。2001年~2003年の(主に)ニューヨークと、1937年~1945年の(主に)パリが舞台となっている。20世紀と21世紀を行ったり来たりしながら話は進んでいく。
20世紀パートの登場人物・バルド・イグナシオとルース・ロックフェラー、21世紀パートの全ての登場人物は架空の人物との注釈が巻末にある。

「ピカソの戦争」展を企画するニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーター・瑤子は2001年の9月11日に夫を失う。2003年アメリカの国務長官が国連本部でイラクを攻撃すると発表した、その後ろにある筈の「ゲルニカ」のタペストリーに暗幕がかけられていた。

1937年4月、故郷のゲルニカがナチスにより空爆されたというニュースがパリにいるピカソにも届く。故郷を壊滅されたと知って哀しみ怒りにふるえるピカソは、アトリエに籠って一気にあの大きなカンバスに「ゲルニカ」を描き上げた。予てより駐仏スペイン大使から出展を依頼されていたパリ国際博覧会のスペイン館に展示されるが、直後にスペイン共和国政府が倒されてフランコ独裁政権が誕生する。スペインが再び民主国家になるまではスペインに「ゲルニカ」が渡らないようにしてくれとピカソに頼まれたバルド・イグナシオ公爵はヨーロッパ各地で展覧会を開いた。そして、ニューヨークのMoMAにピカソの真意を伝え、MoMAで保管展示されることになる。独裁者フランコが死去し、世情が落ち着いた1981年にようやくアメリカからスペインに返還され、マドリード市内の美術館に展示されている。その「ゲルニカ」を瑤子の企画した「ピカソの戦争」展に借り出す働きかけの経緯やその中で起こる事件と、ピカソが「ゲルニカ」を描いた当時の様子や人間模様などとがうまい具合に絡まって物語が深められていく。


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「小説新潮」に2年に渡り掲載された物が加筆修正されて単行本になったとのこと。連載物が本になるとあまり面白くないのが常だけれど、「暗幕のゲルニカ」は良い方ではないだろうか。夫を失い、戦争は嫌だと強く思う瑤子が「ゲルニカ」をニューヨークに借り出すまでの過程と、ピカソと恋人ドラ・マールの関係、ピカソを取り巻く人々やパリの状況の描写が興味をそそる。連載物だからなのか、同じ場面が繰り返されてくどいと感じたけれどそれはそれとしておこう。残念ながらテイクにはすっきりしない終わり方だったので、評価は★3つくらい。途中は面白かったんだけれど・・・。

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ピカソの指示でタペストリーが3枚織られ、その一枚が国連本部に貸与され、安全保障理事会議場前に展示されている。その前で米国務長官がイラク進攻を発表したが、後ろの「ゲルニカ」には暗幕がかけられていた。誰の指示で「ゲルニカ」が消されていたかは不明。この暗幕事件は事実なのだが、テイクは知らなかった。今から空爆を開始すると発表するのに、ナチスによる空爆を描いた「ゲルニカ」があるのは拙かった訳だ。自分たちがナチスと同じことをやるとは思われたくなかった?罪のない市民を殺したという点は全く同じ事なんだけどね。それ以上に、イラク進攻がテロが頻発する世界を産み出したことを思えば、ピカソの怒りと願いは踏みにじられたことになる。






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「つるとはな」 :: 2015/03/14(Sat)

昨日、s美さんにいただいた本3冊。

一冊は「つるとはな」という名の雑誌の創刊号。
「人生の先輩に聞く」という副題があって、内容もテイクの世代よりも少し上の方たちを取り上げた、
とても中身の濃いものです。写真もいいし、もちろん登場人物も魅力的。
足元にも近付けないような先輩も居るけれど、特別な人ではない普通の人たちも登場しています。
二文字の名前で生きてきた女性の人生特集がとてもいいです。
りんさん、ますさん、サキさん、フヨさん、つねさん、ヱイさん。   皆、明るくていいな。

そして、あっと驚いたのは須賀敦子の初公開の手紙。
娘と言っていいほど年の離れた親友へ宛てた何通かの手紙が写真で紹介されています。
彼女のエッセイとは全く違う雰囲気の、何度か目にした若いころの写真の須賀敦子のチャーミングさそのものです。
夫を失った後、苦しく辛い時を経てもこんなにチャーミングに生きていたことを知って今更ながら嬉しく思いました。

次号が楽しみな雑誌です。教えてくれたs美さんに感謝。

あと二冊は「吉野弘詩集」と酒井寛・著「花森安治の仕事」です。
この二冊も読むのが楽しみな本。
テニスも編み物もできないテイクには涙が出るほど嬉しい本のプレゼントです。
アリガト!




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